スペシャルコラム

客員研究員<br>下中 菜穂

客員研究員
下中 菜穂

太陽と魂の再生を願う「冬のまつり」

■冬とはどんな季節だったのか?

四季の穏やかなめぐりが崩れ始めています。私達が季節のめぐりに沿った暮らしを捨て、冬でも夜でも止まることなく活動し続けてきたこと、それがこの事態を招いているのは明らかです。
ふと立ち止まって、生き物としての自分の体の声に耳を澄ませてみます。すると、お日様とともに起きて夜は眠る。春から夏そして秋には日の光を浴びて働き、冬は静かに籠る。そんなゆったりとしたリズムが、かすかに聴こえてきます。行事の底には、そんなリズムを守って暮らすための知恵が潜んでいるような気がするのです。

まずは、かつてはこの時期にどんな行事があったかをたどってみましょう(もちろん、今も続けている地域もあるのですが)。その中から、冬は本来どのような季節だったのかが見えてくるかもしれません。

■田の神を山に送る――「霜月まつり」

稲刈りを終えた後、田の神を山に送る行事が「霜月まつり」です。
山の立木をそのまま神木としたり、藁や木や竹で作った簡易な祠を作り、御幣や削り花などを立てます。山の神は女で嫉妬深いので、男だけで参り、供物も(顔の醜い魚の)オコゼを供えるのだといわれます。
春から秋にかけては稲を育て、冬は山に入って芝を集め、炭を焼き、狩りをするなどの山仕事をする者も多かったのでしょう。そういう暮らしを想像してみれば、神が田と山を往来するという考えが生まれたのも、なるほどとうなずけます。
農村の行事は、このような「神の往来」が軸となって組み立てられているといってよいと思います。

霜月まつりという名前ではないけれど、同じような意義のまつりは各地にあるようです。その一部を挙げてみましょう。

◉丑の日まつり(北九州)
霜月丑の日。田に刈り残した稲を刈って、「重い重い」と言いながら担いで帰る。臼の上の箕に大根や餅などを供える。

◉アエノコト(能登半島)
家の主人が裃袴をつけて、田の神を家に迎える。「長くお待ちくださって寒かったでしょう」「どうぞお上がりください」などと、まるで目の前に神が見えているかの如く丁寧な所作で食事や風呂などの接待をする。

◉芋の祭り(奄美、沖縄、トカラ)
霜月庚の日などに、里芋、山芋、甘薯を供えてノロが祭祀をする。

◉内神(うつがん)の祭り(南九州)
家や門の神を祀る。

◉祭りおさめ(長崎県 対馬)
そば餅を焼いて白米神酒を所々の神に供える。

◉遊びじまい(山口県 周防大島)
この「遊び」とは、「神遊び」つまり神祭のことをさす。

◉霜月遊山(埼玉県 桶川付近)
若い嫁や婿が蕎麦粉を持って里に帰る日。

■新しい火を起こし、みかんを撒く――「ふいご祭(金山講)」

「ふいご祭(金山講)」は、特定の職業の人たちが行った「冬まつり」です。
この日、鍛冶屋、鋳物師、白金細工師など、ふいごを使う職業の人は、仕事場を清め、しめ縄を張り、新しく火を起こします。町場では近隣の子供達にみかんや餅を撒いたといいます。
みかんは「火」、あるいは「太陽」の象徴だったのではないでしょうか。「火を新しくする」ことも考え合わせると、もとは冬至に向かって衰えつつある「太陽」の力の復活を願うまつりだったかもしれません。
この日は、伏見稲荷をはじめとする稲荷社で、火焚き行事が行われる日でもあります。冬場は空気が乾燥するので、火伏せ祈願をという意義もあったのでしょう。

■マレビトが来る冬の夜――「大師講」

旧暦11月23〜24日には、東北から九州までの広い地域で「大師講」が行われます。この夜、大師さまが身なりを変えて訪れるので、火を焚いたり小豆粥を作ってもてなすのだといいます。
元来「タイシ」とは、尊いマレビトを指す「大子(太子)」のことで、異界からの来訪神を歓待する風習だったのでしょう。仏教の布教とともに、来訪するのは弘法大師や元三大師(がんさんだいし)、達磨大師だという伝承となって伝えられたものと思われます。

「元三大師(角大師)」のお札。元三大師良源は平安時代に実在した僧で、比叡山延暦寺の中興の祖とされ、カリスマ的な伝説が数多く語られる。

「笠地蔵」のお地蔵さん、ナマハゲやアマメハギなどのマレビトがやって来るのも、長くて暗い冬の夜だからこそですね。閉ざされた世界を打ち破る力は、異界からの使者がもたらす。それは、開かれているように見えても、実は小さい世界に閉じがちな、今の世にも通じることだと思います。

■冬は「殖ゆ」。そして、魂が「振ゆ」

長く暗い霜月の夜。日暮れから明け方まで、途切れることなく神楽を舞い続ける行事を、今も続けている山里があります。保呂羽山(秋田県)や遠山(長野県)の「霜月神楽」、奥三河の「花祭」(愛知県)など。どこも山深い里です。
民俗学者の折口信夫は、山の神に仕え芸能と呪力を持って諸国を遊行していた「神人」の集団が、年の暮れである霜月に山奥から里へ降りてきて、衰えた冬の太陽の再生を願う「魂振(たまふり)」をした。それが奥三河の花祭の原型だといいました。
「魂振」とは、活力を失った魂を揺さぶり再生する神事。なんとも魅惑的な言葉ですね。先祖たちは、全てが凍る冬にこそ、それが必要だと考え、このような技を蓄えてきたということなのでしょう。

冬枯れの山里を歩くと、一見死んだように見える大地や枯れ木も、実はじっと春の新しい生命を準備していることがわかります。そんな大地を踏みしめながら、そこから私たち自身の再生の力を得る事ができればいいなと思います。

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