うつくしいくらしかた考

うつくしいくらしかたとはなにか

2022年6月20日

うつくしいくらしかたとはなにか:前編

山田節子氏 インタビュー(聞き手:田中宏和)

 

生活が続いていくものであるように、「うつくしいくらしかた」とは結果ではなく日々の積み重ねといえるかもしれません。毎日がんばるのはちょっとハードルが高い気もしますが、それを大変だと思わないで自然体で実践している人にヒントを教えてもらいたくて、くらしのこよみ編集統括の田中宏和が、コーディネーターの山田節子先生にお話をうかがいました。

 

■出会うべき人との出会いを生んだ「思いの強さ」

田中:山田節子先生は、日本人の心、技術、表現力、生活観を、現代の生活に生かし、日々の暮らしを豊かにするお仕事を長年手がけていらっしゃいます。1977年に松屋銀座で初開催された「日本人の食器展」から、近年の会津若松の老舗仏具メ―カーにおける「祈りのかたち」のプロデュースなど、モダンデザインとともに日本の原初的な感性のようなものを大事にされていることに惹きつけられました。

山田節子先生

山田: 「日本人の食器展」を企画した頃の日本は海外志向が日ごと高まっていく時代でした。そのような時だからこそ、日本で育まれてきた美意識をベースに、変化するライフスタイルにかなう日常を豊かにする器の集大成をし展示会をすることが必要と感じたのです。

田中宏和

田中:1979年に『ジャパン・アズ・ナンバーワン』が刊行される直前ですから、日本の伝統を再評価する気運もまだまだないときですね。

山田:ええ。その後1982年、松屋銀座地下食品売場にオープンした日本茶の茶席「茶の葉」誕生も、当時コーヒー、紅茶、缶飲料などに押され、この国の人々が親しんできた日本茶の文化に対して「何かしなければ」の願いからでした。私の話に耳を傾けてくださった松屋の当時の食品部長さんが、「茶の葉」の若き当主を紹介してくださったことから話がスタートいたしました。

その様に、勝手に思いや願いを抱き続けていますと、助け舟を出してくださる方が現れて……(笑)。
そして、幸いにも出会うべき方々との出会いに繋がってきたように思えます。

田中:そんな調和的なあり方が、まさに私の考える「うつくしいくらしかた」と重なります。必然的に人の助けが集まってくるような、独自の「思いの持ち方」をお持ちなのではないでしょうか。

 

■日常茶飯が学びの連続

山田:私の思いの持ち方に独自性があるとしたら、生まれ育ってきた風土や、格別な出会いの繰り返しが関係しているのかも知れません。ジャーナリストの先駆けだった祖父と父とで信州に新聞社を興した家系ということで、家には常に多様な人の出入りがあり、祖母も母も、それを上手に切り盛りし、私も姉たちと一緒に当たり前のこととして手伝い、聞き耳も立てていました。
そうして培われた人との絆や季節を愛でる心が私の素地となったように思います。なかでも忘れることの出来ない原体験は、子どもがいなかった父の妹の家で過ごした、長野県飯田市川路での数年間にあります。
川路には3歳から小学校1年生までいましたが、その地域一番の関島家というお屋敷で遊ぶことが大好きでした。そのお家には7つの蔵があり、菖蒲や蓮の花が咲く池があり、裏には茶席のある築山もある。今思えば琳派の世界を体現していたような場でした。大正時代には農閑期に東京から市川團十郎一座を呼び、庭の広い縁台で歌舞伎を披露し村の人々の日頃の労をねぎらったというお家でありました。

そこのおばあ様が、格別に美しい田舎言葉を話されるお方で、ある日、子供たちが庭先で遊んでいますと「明日からはナ、春から夏に変わる日でありますデナ、お道具を入れ替えねばなりませぬノダニ。それでナ、お前様たちに手伝ってもらいますデナ」とおっしゃるのでした。

そして、大切な食器類が入っていたであろう箱を、小さい子には軽い小さな箱を、大きな子には大きな箱を持たせて「皆でナ 運ぶのでありますニ」と。お屋敷ですから階段もあるし、蔵まで行くにはかなりな距離もあるのです。それでも、関島家の子とそこで遊ぶ私たちが同じ扱いを受けて、「両の手に持って大切に運ばねばなりませぬニ」「転んではなりませぬニ」と言葉をかけてもらいながら。

田中:映画の1シーンのようですね。命という意味において、大人も子どもも同じだというような……。

山田:子どもたち誰もが丁寧に扱われましたね。そして、「手伝ってオくれたご褒美ダニ」とお茶をお入れくださる時も「お茶というものはナ、決して急いで入れてはなりませヌニ」「右の茶碗から左の茶碗へ。今度はナ左から右へ、少しずつ少しずつ入れなければなりませヌニ。そうしませぬトナ皆に同じ美味しいお茶が入らないのでありますニ」といった風に……。

思えばそれは後年「茶の葉」につながる 日本茶を美味しく入れる所作を教えられた事始めであったとも思えます。

             幼いころ川路で教わったというお箸とお茶碗の持ち運び方

別のときには 裏庭にある築山の茶席で季節の炊き込みご飯をごちそうになることもあり、子どもたちの楽しみでした。それぞれがお茶碗とお箸の持ち方、運び方を教えられ、茶席で美味しくいただいて、帰り際には「おうちの方へのお土産でありますニ」と花一輪を和紙包みにして持たせてくださる。忘れることなき、生活美学の学びの場でありました。


■自然と「人との出会い」に育てられてきたこと

田中:ふだんの暮らしのなかで、知らずしらずのうちに日本の伝統や風習を教わっていく環境にいらっしゃったのですね。一方で興味深いのは、その後先生が多摩美術大学に進学され、モダンデザインにも関心が広がっていかれたということです。

山田:我が家には絶えず漆器や陶器を作る人、絵を描く人などの出入もあり、毎月送られてくる美術雑誌や海外雑誌を見るにつけ、「これからはデザインの時代かもしれない」という予感があり、1962年に美大の図案科に入りました。その頃はまだデザイン科とは呼ばず図案科でした。当時は松屋のデザイン展示を観に行くことが、デザイン系の学生の憧れの場でありました。1955年以来グッドデザイン運動を推進し、デザインの選定品の売場もあり、展覧会も開かれ……デザイン系の学生にとっては「松屋に行かないと時代に遅れる」と云われていました。

強く印象に残っている展示の一つが、松屋の中央ホールの吹き抜けの天窓から、今では誰もがご存じのマリメッコのテキスタイルがディスプレイされたときです。その斬新で大胆なデザイン・表現・展示のすべてが圧巻で、必ずこの国に行ってみなければと思わされたことでした。

田中:なんてモダンな!

山田:「海外のデザイン」や「デザインの未来」を意識しつつも、2年生になると染織科に進むのですが、大学の授業は退屈なことが多く、1年生の夏休み以後、仲間と益子へ陶器を作りに行くことが、何よりの楽しみになりました。その時 そこで、陶芸家・濱田庄司先生との思いもかけぬ出会いは大きな出来事した。当時益子に集まる美大の学生は多く、濱田先生から「屋敷の掃除をしに来なさい」と、お声がかかる日がありました。

掃除が終わるころ「ご苦労」と言われて先生が現れ、ご褒美の如く「この濱田が良いと思って集めてきたものだから」と言われて、若き日のイギリス留学時代に始まり、国内外での蒐集品を「いいだろう いいだろう」とおっしゃられながら見せてくださいました。「濱田はこういうものが好きで、今このような<もの>を作っているのだと、その道筋だけを覚えていれば良い」と語られる、そのお姿は忘れることのできない一場面でありました。

田中:素晴らしい教育ですね……。

山田:まさに「歩んでいると人にモノに当たる」というように、幸運な人間であったと思っています。私自身は何の能力もなかったと思うのですが、ただ、「語り部」として現代に伝えたいような、出会いや出来事が幾たびもありました。

田中:歩いてみることが大事だし、さらにそこでうまく人と出会えるというのは、最初の話に戻るようですが、自然と引き寄せるような何かがそこにあるということかと思うのです。

山田:でもね、私ひとりで出会えたわけでは決してありません。その時々で仲間がいて、その人・モノ・コトたちとのご縁をつないでいくことで、さらに格別な方々にお目にかかることができました。ですから、<自然>と<人>と<コト>に育てられてきたという思いが強くあります。

 

■柳宗理事務所の入門を導いたもの

山田:柳宗理先生との出会いも、柳事務所に4年生の時から仕事が決まり事務所に通い始めた親友が「すごい先生だから会ってみたら」と誘われたのがことの始まりでした。柳事務所では当時ふだんの日は千円の材料費で、スタッフの昼食を作るという習慣があり、今ではグッドデザインの名品となっているステンレスボウルや白磁の器を使い、先生と所員が一緒にいただくのが常でした。当時、狸そば一杯が80円ぐらいの時代でした。

私が初めて伺ったその日に、イタリアからのお客様があり、友人が「この人、料理が上手ですよ」との話から、友人と私が10人前後の料理を予算四千円で担当することになりました。その日の帰り際に先生が、「学校へ行ってもしょうがないから、明日からここへ来なさい」と言われたのです。それはあまりにも幸運な出来事で、「はい」と深く頭を垂れたことでした。

田中:事務所の入所テストに料理で合格されたわけですね(笑)。ちなみに、料理はどのように覚えられたのでしょうか。

山田:特別に習ったりはしていないのですよ。たとえば、お正月には大勢のお客様がある家だったので、必然的に年末からおせちを作るために、三姉妹も駆り出され働きました。「どうしてこんな家に生まれたのかね」とぼやきながら自然と身についたといいますか……(苦笑)。親もそれぞれの特性に合う分担を考えてくれ、元旦の朝から正月三ケ日は、私は盛り付け係でした。

田中:料理の味もさることながら、盛り付け方も「あ、これは」と光るものがあったのではないでしょうか。

インタビューは山田先生のご自宅で行われた

山田:どうでしょうか。ただ、柳事務所では美意識に対する緊張感は常に欠かせないところでした。忘れられない出来事がありまして、ある朝、事務所のドアを開けるなり、柳先生の「帰れ!」との怒鳴り声がとんできたことがありました。それで一度戸を閉め、何故なのか理由がわからず、恐る恐るドアを再び開けますと、また「帰れと言っただろ」と大声が。「どうしてでしょうか?すみません、教えてください」と頭を下げますと、「今日のお前の顔の色と口紅の色と全然あっていない。そんなことも分からず事務所へ来るな」と。思いもかけぬことの厳しさでした。己を返り見ず流行に流された安直さを戒められたエピソードは他にもあり、忘れぬようにと、常に思い返しています。

 

■ガウディの建築に受けた洗礼

田中:大学卒業後、1968年にヨーロッパに渡られます。

山田:はい。あるとき柳先生に「一度世界を見てから、自分が何をすべきか、考えなさい」と言葉をかけていただきます。そこで憧れの地、ヨーロッパへの初めての旅に出ました。ヨーロッパは、それぞれの国ごとに心惹かれる表情があり魅力的でした。中でも際立って異様なものと思いこんでいたガウディの建築ですら、スペイン・バルセロナの街並みでは風景に馴染んでいて驚かされました。
漠然とヨーロッパに憧れていた当時の私にとって、頭からザーッと水をかけられたような出来事となり、わずかな滞在でしたが、日本のことをもう一度、改めて見直し、勉強しようと思うきっかけになりました。

田中:柳先生からの宿題に一つの答えを出せたのでしょうか。

山田:はい。幼い頃の南信州の川路での昔話のような暮らしや、長野市にあった自家で「おせち」を作らされたことなど、忘れかけていた日々の暮らしにこそ、これからやっていくべきことへの大切なヒントがあることに立ち戻れたことでした。

私の人生は、常に善き出会いがあり、道が開かれてきたという感謝の思いがあります。それは田舎のおじいさんだったり、おばあさんだったり、あるいは第一線で活躍する方々であったりと様々ですが、多くの方々、多くの事々、多様な場から 常に学びをいただいてきました。



うつくしいくらしかたとはなにか:後編

山田節子氏 インタビュー(聞き手:田中宏和)

 

■日々を大切にすることと「用の美」

田中:山田先生は日本の伝統を現代に生かす仕事を手がけられてきました。半世紀以上にわたって携わってこられた百貨店「松屋銀座」での展示に代表されるように、その中心に「器」が据えられているように感じるのですが。

山田:特に器というわけではありませんが、365日お世話になるものでしょう? たとえば、料理に合わせて、値段の高い安いは関係なく、自分で選んだ好みの器を使って感謝していただく。「日々を大切にする」とは、そんなことの積み重ねなのだと思うのです。さらに、おもてなしや季節ごとに、ふだんと違う器を使うことで、生活の彩りが生まれますよね。<良き未来のために>をテーマとして、次は この方に、この素材で、器に限らず、新たな企画をさせていただきたいと 楽しみは尽きません。

田中:柳宗悦さんの民藝運動から発した「用の美」にもつながるように感じます。

柳宗理のステンレスボウル
確かに大きさによって形が微妙に異なる

 

山田:民藝と現在の量産工芸とで 技術・素材・表現は違えど、柳宗理先生は、工芸ではなく、生活デザインの中に「用の美」を追い続けられました。宗理先生のステンレスボールは、私は50年以上使っていますが、サイズごとに形が異なっています。宗理先生は、ボールのデザインに取り掛かる時、事務所のベテラン所員の方を著名な料理研究家の教室に通わせ、どんな料理の時に、どのような道具を必要として、どのような所作をするのか等を徹底的にリサーチされていました。それをもとに、野菜や器を洗うボールはこの形に、ミキシングボールはこの形にと、微細にデザインされたのです。それぞれに美しく、使いやすく、味わい深いデザインの傑作かと思います。是非お試しあれと思います。

 

■丁寧に生きても時間はかからない

田中:人間は食べないと生きていけないわけで、器や道具と生活は切り離せないものです。一方で、若い方の間では、パンやお菓子、カップ麺ばかりを食べて、器を使わない人も増えています。

山田:パッケージが器の代わりのような食のあり方になってきていて、ときどき不安になることもありますね。一方では生活文化を見直すような動きも出てきていると感じています。松屋銀座で20年近く続く「手仕事直売所」という催事がありますが、2021年9月というこのコロナ禍の厳しい中で、多くのお客様がお出かけ下さり過去最高の売り上げを記録しました。「お客様はすごい」「人・モノは信じるに足りる」と実感させられた良き出来事でありました。

インタビューの最中に
お茶を入れてくれる山田先生

ものが売れないと言われている時代ですが、今松屋では絵画やオブジェが売れていますし。会津若松の老舗仏具メーカー・アルテマイスターでプロデュースした厨子も売上が伸びているようです。私はこの厨子を、「新しい祈りのかたち」「自分の心を見る 大切なモノやコトを納める箱」と捉えています。不安の多い世相を反映しているのかもしれませんが、生活文化や精神性への関心の高まりは、自分の足もとを照らして、よりよく生きていきたいという人々の気持ちの表れのように感じています。

田中:山田先生の半生と取り組みは、「感謝」に貫かれているような思いがします。その対象も、何か特定の神へというよりは……。

山田:生かされている、ということへの感謝ですね。私が今ここにあるのは先祖であったり、さまざまなつながりのおかげであったりする。そのような物事の関係性に敬意を払うという感覚です。自然の恵みをいただいて、感謝の心で作った料理を、より美味しく食べさせていただける器を選んだ方がいいのではないかというように。

田中:なるほど。食事と人をつないでくれる媒体が器ですものね。

山田:そうですね。そして、生かされることへの感謝を示すひとつが「丁寧に生きる」ではないかと思うのです。関係性も十人十色ですし、皆それぞれ忙しく生きているとは思いますが、ほんの少し、丁寧に生きてみる。丁寧に生きてもそんなに時間はかかりませんよね。

 

■「祈り」と共に生きる

田中:先ほどアルテマイスターで「新しい祈りのかたち」として厨子を提案されているというお話がありました。東日本大震災、そしてコロナ渦を経て、「祈り」というのも時代のキーワードになっているような気がします。

山田:アルテマイスターに初めてうかがったのは1998年でした。そもそも私の発想の多くは 自分の暮らしの中にあります。家に仏壇もあり、お水やお花を捧げことは欠かしませんが、信仰や宗教など「祈りの文化」に関わるとは 思いもよらぬことでした。

ただ、先祖を弔う気持ちは無論のこと、日々の嬉しさや悲しさ、自然への畏怖の心を含め、人の心の機微を受けとめてくれるモノやコトは必要だと感じておりました。たとえば、我が家で陶芸家・伊藤慶二さんの手がけた仏様や、庭に置いてある「仏足」という作品が、その役割を果たしてくれています。朝夕に見るにつけ、心穏やかになり、自然に包まれるが如く、見守られている安堵感が生まれます。

                     陶芸家・伊藤慶二氏による仏様

田中:お写真で拝見して、ぜひ現物を見たいなと思っていました。この仏様は、青森の合掌土偶を思わせるような佇まいですね。仏教以前の日本の精神性のようなものが形になっているような。

山田:孫が2歳の時、幼いながら何かを感じたようで、この仏様の前に来るとスッと座って頭を下げるんですよ。「形を真似る」とはこういうことかと。だからこそ、<心あるもの>を側に置くことの大切さを、改めて感じたことでした。

この無垢なる仏が座す姿が目にとまることで 心安らかになります。そして、今生きる家族に対しても、自然と「今日も一日元気でいてくださいね」という気持ちへと繋がるのです。

田中:それはもう宗教心を超えた、うつくしい暮らしの態度や姿勢ですね。

山田:祈りとは、人間が生かされているということに対する感謝や願い、希望の表れかとも思います。現在のコロナ禍を経て、もうこれ以上自然をおろそかにしたら、人間が生きていけなくなるという瀬戸際に来ているのではないでしょうか。私たちは祈りと共に、地球をうつくしいまま残していくことを 考えなければなりません。そして自分の可能な範囲で、一日一日、一食一食、一行一行、労を惜しまず、丁寧に生きることではないでしょうか。

田中:山田先生の体験をベースに「うつくしいくらしかた」のヒントをたくさんいただきました。本日はありがとうございました。

 


山田節子

1943年長野県生まれ。

多摩美術大学卒業後、1974年に山田節子事務所を設立し、松屋銀座にてコーディネーターとしてさまざまな催事・売り場の提案・企画展などを行う中で産地でのものづくり指導をはじめ、1999年からは会津若松のアルテマイスター、そのアンテナショップであるギャラリー厨子屋の企画戦略を推進。常に生活者の視点で、ものと人が出会う場やコトづくりの提案をしている。

田中宏和

1969年京都府生まれ。
「くらしのこよみ」編集統括。
全国47都道府県訪問経験有。

美味美酒を好むとは言え、好物は蕎麦とカレーとひねり無く、日課は愛猫プラトンを撫でること。同姓同名収集家として1994年より田中宏和運動の活動を行っており、一般社団法人田中宏和の会の代表理事を務める。


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